伊藤左千夫の名を聞くと、多くの人は「野菊の墓」を思い出す。15才の政夫と17才の民子の淡い恋物語は映画化もされた彼の代表作だが、しかしそれに連ねてあれもこれもと、彼の作品を思い出すことは左千夫贔屓でない限り無い。 左千夫の文学活動の多くは歌で、小説家としての左千夫など知らぬという人が多い、と昭和25年に中野重治が書いているが、現在ではその逆で、一般的には小説家として認識している人が多いはずで、自分もその一人である。
生い立ち
伊藤左千夫は、元治元年(1864)8月18日、上総国武射郡殿台村18番屋敷に、農業伊藤重左衛門の末子として誕生した。幼名は幸次郎。 武射郡殿台村は、現在の山武郡成東町である。父の良作は優れた漢学者だった。母の愛情も一身に受け、健やかな幼年時代で、左千夫の幸せのピークはこの時代だったといわれる。
上京
18才の頃には政治家を志すが、病を得るなどして挫折。実業家への転進を図る。この辺りいささか野心家的で、野菊の墓から受ける繊細さには遠い。 22才に実業家を目指して上京、幾つかの牧場を流転。「朝は五時か六時に起こされ、夜は十時でなければ寝ることができない」と小説「分家」の中の主人公の言葉にあるが、これは当時の彼の苦難の日々を書いたものであろう。 4年後には独立して、錦糸町で牛乳搾取業「乳牛改良社」を開業。この年の暮に結婚。商いが軌道に乗ると友も得て、茶の湯、歌会に顔を出すようになり、文学者としての顔が見え始める。時に左千夫30才。
正岡子規
明治33年1月、上野の根岸に歌人・正岡子規を訪ねる。左千夫の人生が大きく変わる日であった。その日から子規の提唱する「写生」の道を追及し、子規を崇拝し続けた。 「子規の精神と人格は、予の絶対に信仰するところである」と左千夫は言い切っている。いささか偏執的印象は否めない。
その子規は、出会ってからわずか2年半で脊椎カリエスのため不帰の人となる。失意の左千夫だったが、なお子規の精神を継承し続けた。 子規の今日あるは、左千夫の功績によるところが大きい、ということも野菊の墓しか浮かばない者は知らない。 小説「野菊の墓」は明治39年ホトトギスに発表した処女作で、夏目漱石らから賞賛され、後世まで読み継がれる名作となった。
野菊咲く家
左千夫の生家は大きな茅葺の農家である。内部は一般的な土間の広い農家建築で、当時としては間取りも特別ではない。 今は、成東町の外れにある資料館の裏手にひっそりと移築されている。隣接して茶室「唯真庵」もある。資料館で左千夫の写真を見た。 これも清楚な野菊とは重ならない、野武士のような面構えに意標を突かれた。晩年の顔は特にそうであった。 「野菊の墓」がもたらした、こちらの勝手な想像との落差なのだが。
晩年、左千夫は斉藤茂吉らと対立、孤独のままに50年の人生を閉じた。子規に心酔した人生であった。 惚れぬける人や仕事に出会えた幸せが垣間見える、左千夫の半生である。
牛飼が歌よむ時の世の中の あたらしき歌大いに起る 左千夫の代表作という。
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ 露しとしとと柿の落葉深く との歌もある。
凡人の自分には良くは解らないが、響いてくるものが少ない。左千夫はどれほど優れた歌人だったのだろうか。 「野菊の墓」の文章にしても滑らかとはいい難い。それでも、やはり「野菊の墓」かと思いながら家を辞す。背中で民子が手を振っているような気がした。